2009年 1月 6日  10:06 pm GMT+7
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 チェンマイとは新しい城という意味の名です。チェンが城壁で、マイが新しいに相当します。この「新しい城」を建てたメンライ王は、山向こうのチェンセーンから来たタイ族でした。もともと雲南にいたと言われるタイ族はメコン川を下って南下し、北タイ各地や東北タイ、対岸のラオスに移住します。そして13世紀になると、それまでインドシナで旺盛だったクメールの影響力の波が退くに従い、各地で独立します。

 メンライ王の父が治めていたというチェンセーンの国もそうしたタイ族の国の一つでした。その名はタイ・ヨノクと伝わっています。1261年に父王のあとを継いだメンライは都を南に移し、コク川をさかのぼったチェンライの都を造ります。その後、1291年から1292年にかけて、ランプーンに進撃し、モン・クメールの国ハリプンチャイを倒します。王は1296年にランプーンの北20キロ地点にチェンマイの都を築き、ラン・ナー(百万の田)国の中心としました。

 このメンライ王は伝説によると、1287年にスコータイのラームカムヘン王、パヤオのガーム・ムアン王と協定を結びます。このタイ族の王たちは若い頃、チャオプラヤー川流域のロブリーで同じ寺で学び、友情を結んだという話になっています。チェンマイの県庁の前には、三人の王が手を結ぶ像が置いてあります。この話が史実であるかはともかく、13世紀のそれまでのモン・クメール族に変わって、メコン川から入ってきたタイ族がチャオプラヤー川上流域で勃興してきたことは確かなようです。

 こうした北方のタイ族は先住のモン・クメール族の文化の影響を受けただけでなく、パガンのモン・ビルマ文化、パガン経由のインド・パーラ文化、スリランカ文化の影響を受けました。又、タイ族独自の美術の型もチェンセーン、チャンマイ美術として守りました。そうした文化の波は、数々の仏教美術遺品に如実に残っています。

 14世紀に入ると、タイ族の国家は戦いを始めます。ラーン・ナー国は同じくタイ族のスコータイやラオスと闘うようになります。14世紀末から、チャオプラヤー下流のアユタヤが優勢になり、北タイの国々に干渉するようになります。15世紀に現れたティロカラーチャ王(1441−87)はチェンマイの歴史の中で最も偉大な王と言えましょう。彼は北に勢力を伸ばすアユタヤ(スコータイを1438に併合)に対抗し、王は何回も戦いを交えました。46年間の治世の間に王はチェディー・ルワン等の大建築を建てましたし、1455年には仏暦2000年を祝って結集を行ったと言われています。チェットヨート寺はその時の建立とも言われています。

 16世紀になると、チャンマイの運勢に陰りが見え始めます。王位争いに乗じて、ラオスのラーンサーン国のセータラ−ジ王は、母がラーンナーの王女であったことから一時は王位につき、エメラルド仏をヴィェンチャンに持っていってしまいます。現在バンコクの王室守護寺院にありますエメラルド仏は18世紀末までヴィェンチャンにあったものです。


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