タイ人を「タイ語を話す人たち」と規定して見ると、タイ人は現在のタイ国領土に相当 する地域に以前から住んでいたわけではありません。
6世紀頃にこの地域に住んでいたのは モン語を話し モン字で書く モン人でした。ベンガル湾沿いに伝来したインド文明に浴していたモン人たちはタイ国土内には土塁と堀
で囲まれた都市遺構と仏教美術品を残しています。この文化に重なるようにして西から 古代クメ−ル帝国が軍事的、政治的に進出し、クメ−ル文化はこの地域を覆います。クメ
−ル帝国は交易を奨励し 交易ル−トである河川に沿って駅市都市が繁栄します。交易の 道は雲南に通じており 盛んになった物流はタイ族をうながして 南下させ スコ−タイナ−ン等のチャオプラヤ河上流の都市国家には「タイ語を話す人たち」がします。
13世紀がタイ族台頭と独立の時代なら、14世紀はタイ族の国造りの時期です。ピン 河のチェンマイ、ワン河のパヤオ、ヨム河のスコ−タイにシ−サチャナラ−イ、ナ−ン河
のナ−ン、下流にはピサヌロ−ク等の都市国家が栄えました。
15世紀はタイ族同志が戦う時代です。14世紀半ば南に勃興した港市国家アユタヤは やがて大きな都市国家となり 1438年には北のスコ−タイを併合します。北のタイ族
の都市国家チェンマイも勢力を広げ アユタヤとチェンマイは戦いますが やがて北方の タイ族都市国家は西方のビルマの軍門に下り アユタヤを攻撃します。1569年 アユ
タヤは始めてビルマに敗北しました。
1590年 アユタヤはナレ−スワン王のもとに独立しますが 時は既に「大いなる通 商」の時代。東方の珍宝を求めて来航する西欧諸国を相手に港市国家アユタヤは最大の努
力をします。チャオプラヤ河の航路改善などの策を施行しながら 港市国家アユタヤは1 7世紀のナラ−イ王の治世に全盛を迎えます。スペイン、英国、オランダ等の商館が立ち
並び ペルシャ商人、インド商人、華僑たちが活躍し 日本人町もあった国際都市アユタ ヤの重要性はフランスのルイ14世は使節を送ったことからも理解されるでしょう。
貿易上の競争はベンガル湾の交易都市国家ビルマとの軋轢を生み 1767年にアユタ ヤは再度敗北し 滅亡します。
アユタヤを継いでトンブリ王朝のタクシン王は失地回復、領土拡張に邁進しました。
1782年に始まったバンコク王朝の初代ラ−マ1世から3世までの時代は近隣諸国と の戦争が繁く 他国から大勢の住民が捕虜として連行され タイ国の住民となりました。ラ−マ4世は1855年ボ−リング条約に始まる数々の通商貿易を西欧各国と結び、王室
による管理貿易は機能を失い 王室の財政基盤は脅かされます。
それを建て直そうとしたラ−マ5世は王権を絶対化し 国民皆兵制度、奴隷廃止等を柱 に行政の近代化を図ります。運河掘削、鉄道建設などのインフラ整備も行いました。中国
からの移民が多くなり 人口の少ないタイで貴重な労働力となります。
西と南の英国圧力に東北のフランス勢力と、タイの国境にせまる諸外国の力は強くなり ラ−マ5世の政府は「手足を切って」国土を分割し 独立を確保します。ラ−マ7世時代
の世界恐慌は西欧帰りの若手将校たちによるク−デタ−のきっかけを作り 1932年 絶対王政は立憲王政に移行しました。
大東亜戦争に際して日本軍はタイに進駐し ピブン・ソンクラ−ン内閣は日本軍に協力 しますが、「自由タイ運動」の存在により タイは戦勝国となりました。激動するインド
シナの中で1959年以来タイ国軍は反共政策を確認、米国との強調を高め インドシナ 戦争の為にタイ国内の基地使用を認めるとともに 東北地方の開発、全国の道路網の整備
などを進めます。以来続いた軍政の時代は1970年代半ばに大きな変換期を迎え その 後段階的に文官政治に移行しています。様々なル−ツを持つ人々が到来し、「タイ語を話
すタイ人」になったタイ国の歴史は開放的で 実力本位のタイ社会の姿を語っています。
レヌカ−・M
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